接続詞の働きについて説明する「後続文脈の展開の方向性」とは、文章を声で表現する朗読者にとって、とりわけ重要なキーワードだ。
朗読者にとって「成る程・・・」「例えば・・・」と口にするときには、「後続文脈の展開の方向性」がすでに頭になければならない。先で話がどうなっているか見えていることが大事なのだ。書き手にしてみれば、その先でどう展開するかに合わせて接続詞を選んだのだから、そのことは至極当然のことなのだ。
書かれた文を声に出したときに、その接続詞一語の発音の仕方によって、先が見えているかどうか、鋭敏な耳には、はっきりとわかる。「方向性を示す表現」なのだからその方向に沿った音声による表現がされなければならない。
「例えば」の方が、比較的、口にすることが多いだろうが、「成る程」はそうは使わない。だから「例えば」の方が、言い慣れているから、表現し易しいという人が多いだろうと思う。
また「成る程」ひとつとっても、様(さま)になっている音声の「成る程」と、そうでないのがある。日頃言い慣れていない言葉は声にすると様(さま)にならないのだ。これは朗読者なら誰でも気付いている。
さらに、方向性が見えているのと、見えていないのでは、後続文脈の音声に違いがでる。これも容易に納得できることだろう。これまで、わたしは、文章の朗読で、各段落の文頭に注意を払うことが大事と言い続けてきたが、この「後続文脈の展開の方向性」ということを言いたかったのだ。今回はじめて自覚することができたように思う。接続詞の働きを考えることが鍵だったのだ。このことはさらに考え続けていきたいが、まず、接続詞表現に敏感になるべきだといっておこう。
ところで、文章をとりあえずこう見ておくことができるだろう。いくつかの言葉がつながって文となり、いくつかの文がつながって段落を構成する、そしていくつかの段落がひとつの文章を構成して行く。文章が何事かをのべていくとき、文と文、段落と段落のつながりが文脈を展開していくのである。そこで接続詞が機能しているというわけだ。
とはいえ、文と文、段落と段落のつながりが必ず接続詞でなされているというわけではない。接続詞がないことがある。それどころか「ないのが普通」とわれわれが参考にしている『文章は接続詞で決まる』はいう。
ここでわたしの文章も文脈の展開、あるいは転換をはかる。ここまでは接続詞に注目することによって、「文脈の展開」ということに意識を向けるように導いてきた。これからは、接続詞が使われていない場合をふくめて、「文脈の展開」一般についてじっくりと考えてみたいと思う。
次は一文としてはやや長めの文だが、これがまとまりをもつ一文として理解されるために、何が作用しているか考えてみよう。
ー「美を求める心」という大きな課題に対して、私は、小さな事ばかり、お話ししている様ですが、私は、美の問題は、美とは何かという様な面倒な議論の問題ではなく、私たちめいめいの、小さな、はっきりした美しさの経験が根本だ、と考えているからです。
この例文では、文頭に、「美を求める心」という大きな課題、という構えの大きな言い方がされていて「後続文脈の展開の方向性」を示しているといえないだろうか。美しさの経験が根本だ、というように、根本に立ち戻ってのべるという方向が。この場合は接続詞ではないけれども、言い出しの構えが、後続文脈の構えを予測させる、といえるだろう。
もう一点。文末の「からです」を『文章は接続詞で決まる』の著者、石黒圭氏は「文末接続詞」だという。驚いたことに文末で働く接続詞があるのだ(この「のだ」もその一つ)。そして「からだ」「からです」の文末接続詞は「先行文脈の内容になんらかの違和感があるときに、その理由を示し、違和感を軽減させる働き」があるという。
大きな課題に対して、小さな事ばかり、というのが違和感で、小さな、はっきりした美しさの経験が根本だと考えている、という理由が示される。後に続く文脈で理由を示すのだから「文章の構造化に貢献」しているのである。「なぜなら~からだ」というセットの形で文章を構造化する。「~からです」単独の形でも、この一文がまとまりとして理解されるのを助けてくれる。
それでは、前回の文章で引用した、一つの段落の部分、したがって改行、行を変えることなしで綴られていた文章を、文脈の展開(転換をふくめて)を明示するために、展開するところで行を変えて(改行して)示していくことにしよう。ワープロでは簡単にできることだ。そうすることで、文章の〈構造〉というものに迫ることになるだろう。まずは、接続詞が使われていない例。
1ー近頃は、展覧会や音楽会が盛んに開かれて、絵を見たり、音楽を聴いたりする人々の数も急に殖えてきた様子です。その為でしょうか、若い人達から、よく絵や音楽について意見を聞かれるようになりました。
近頃の絵や音楽は難しくてよく判らぬ、ああいうものが解るようになるには、どういう勉強をしたらいいか、どういう本を読んだらいいか、という質問が、大変多いのです。
私は、美術や音楽に関する本を読むことも結構であろうが、それよりも、何も考えずに、沢山見たり聴いたりする事が第一だ、と何時も答えています。
このように書き表すと、文脈の展開がきわめて明瞭になるのが実感できるだろうと思う。(意見を聞かれる)ー(質問が多い)ー(答えている)という展開である。この段落の構造が示された、と考えてもよい。
元の文章を朗読するとき、このような文脈の展開をはっきり認識して、ここに示したように、行を変えたところでは休止を長くとって、音声にして行くのだ。
こんどは接続詞が使われている例。
2ー先ず、何を措いても、見ることです。聴くことです。
そういうと、そんな事は解り切った話だ、と諸君は言うでしょう。
処が、私は、それはちっとも解り切った話ではない、諸君は、恐らく、その事を、よくよく考えて見たことはないだろうと言いたいのです。
これは簡単。「先ず」は大辞林では副詞としているが、文頭で使われているので、ここでは接続詞とみなす。いづれにしても、文脈展開の冒頭であることを示す。「そういうと」も接続詞とみなせる。どんな風に、後続の文脈が展開するか予測している。予測の範囲内でつづくことを示す。そして「処が」は接続詞で「予想や期待に反したことを述べはじめようとするときに用いる」と解説されている。「想定外の展開を表す逆接に使う接続詞」なのだ。逆接という展開だ、転換と見てもいいだろう。
この三つの文からなる段落の文脈の展開は、それぞれの文の冒頭の一語に注目することによって見えて来る。朗読はその認識をもとに音声にして行くのである。
3ー例えば、野球の選手の眼には、諸君より、遥かによく球が見えているでしょう。或る人に聞いたが、川上選手は打撃の調子のいい時は、球が眼の前で止まって見える、と人に語ったそうだ。
私は、誇張ではないと思う。そんなふうに、球が見えてくるためには、目を働かせる努力と練習とがどれほど必要であったかを考えてみるべきです。
画家でも音楽家でも同じ事で、彼等は、色を見、音を聴く訓練と努力の結果、普通の人には殆ど信じられないほどの、色の微妙な調子を見分け、細かな音を聴き分けているに違いないのです。
このように書き表せば、(野球選手の具体例)ー(努力と練習)ー(画家でも音楽家でも同じ)というこの段落の文脈(構造)が、このように三つの部分で構成されていることが明瞭になる。「例えば」は副詞で、「具体的な事例を示す時に用いる」とされ、この段落の文章で接続詞は使われていないのだが、アンダーラインをした部分、文頭のことばで、文脈が展開していることに気づいてほしい。「或る人に聞いたが」と「そんなふうに」も文頭のことばだが、この場合なめらかに続いていくだけで、文脈が展開するのとは違っている。この理解は、長短の休止の取り方など、音声にしたときの読み方にはっきりした違いをもたらす。
4ー成る程、詩人の使う言葉も、諸君が日常使っている言葉も同じ言葉だ。言葉というものは、勝手に一人で発明できるものではない。歌人でも、皆が使って、よく知っている言葉を取り上げるより他はない。
ただ、歌人は、そういう日常の言葉を、綿密に選択して、これを様々に組合わせて、はっきりした歌の姿を、詩の形を、作り上げるのです。すると、日常の言葉は、この姿、形のなかで、日常、まるで持たなかった力を得て来るのです。
この段落についてはすでに前稿で説明したが、「成る程」と「ただ」という接続詞が文脈の展開を示してくれることを見ておいてほしい。前半の「成る程」でくるまれた二つの文の範囲でいえば、滑らかに文脈が続いていることを感じ取ればよい。後半の「ただ」でくるまれた範囲は「すると」でふたつに分かれるけれども「すると」という接続詞は、大辞林には「前の事柄に続いて次の事柄が起ることを示す」とある。まさに、滑らかに文脈が続く。ここで文脈が別の方向に展開するわけではない。したがってこのように書き表したのである。「成る程」「ただ」といった接続詞は、後続の文脈の範囲を持っていることがわかる。この場合ふたつの文に及んでいる。
5ー私達の感動というものは、自ずから外に現れるものだ。顔の表情となって現れたり、叫びとなって現れたりします。そして、感動は消えて了うものです。
だが、どんなに美しいものを見たときの感動も、そういうふうに自然に外に現れるのでは、美しくはないでしょう。
これについても前稿でのべた。「だが」という〈逆接〉の接続詞のところで論旨が展開していると理解すればよい。こう書き表したように声にするのは、そう難しいことではないだろう。とはいえ「でも」とか「けれど」ならともかく「だが」なんて言ったことがないので様にならない、と思う人もいるだろう。
こう書き表したように、黙読したときに理解できるか、が問題なのだ。文章の理解とはまずそのようなものと思ってよい。「だが」の一語にそのことがかかっている。そのことばの前後で論旨が展開するのだ。
では、ここで少し長い引用をして、文脈の展開ということをさらに考えることにしよう。どう論旨が展開して行くのか、黙読して文脈の展開を追って見て欲しい。
6ー話は私事になるが、私は、ロンドンのダンヒルの店で、何の特徴もないが、古風な、如何にも美しい形をしたライターを見附て買って来た。書斎の机の上に置いてあるから、今までに沢山の来客が、それで煙草の火をつけた訳だが、火をつける序でに、よく見て、これは美しいライターだと言ってくれた人は一人もない。成る程、見る人はあるが、ちょっと見たかと思うと、直ぐ口をきく。これは何処のライターだ、ダンヒルか、いくらだ、それでおしまいです。黙って一分間も眺めた人はない。詰まらぬ話をするなどと言わないで下さい。諸君は試みに黙ってライターの形を一分間眺めて見るといい。一分間にどれ程沢山なものが眼に見えて来るかに驚くでしょう。そしてライターの形だけを黙って眺める一分間がどれ程長いものかに驚くでしょう。見ることは喋ることではない。言葉は眼の邪魔になるものです。例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の色も形も見るのを止めるでしょう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。菫の花という言葉が、諸君の心のうちに這入って来れば、諸君は、もう眼を閉じるのです。それほど、黙って物を見るということは難しいことです。菫の花だと解るという事は、花の姿や色の美しい幹事を言葉で置き換えて了うことです。言葉の邪魔の這入らぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、嘗て見た事もなかった様な美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう。画家は、皆そういう風に花を見ているのです。何年も何年も同じ花を見て描いているのです。そうして出来上がった花の絵は、やはり画家が花を見たような見方で見なければ何にもならない。絵は画家が、黙ってみた美しい花の感じを現しているのです。花の名前なぞを現しているのではありません。
段落とは「一つの主題をもってまとまった部分」と説明されるが、それにしては極めて長いといってもよさそうだ。その為もあって一読すっと論旨が頭に入るとはいいがたい。途中、文脈の展開を見失いアレレともう一度前に戻って読み直すといったことをした人は多いだろう。「まとまった部分」とは構造をもつといってもよい。わかりにくいとは、構造がわかりにくいのだ。一読して構造が見えて来ないのだ。
それでは、これを、ワープロの利便性を生かして、こう書き表したらどうか。もう一度、黙読し論旨を追って見よう。構造が見えてこないだろうか。
6ー話は私事になるが、私は、ロンドンのダンヒルの店で、何の特徴もないが、古風な、如何にも美しい形をしたライターを見附て買って来た。書斎の机の上に置いてあるから、今までに沢山の来客が、それで煙草の火をつけた訳だが、火をつける序でに、よく見て、これは美しいライターだと言ってくれた人は一人もない。
成る程、見る人はあるが、ちょっと見たかと思うと、直ぐ口をきく。これは何処のライターだ、ダンヒルか、いくらだ、それでおしまいです。黙って一分間も眺めた人はない。
詰まらぬ話をするなどと言わないで下さい。諸君は試みに黙ってライターの形を一分間眺めて見るといい。一分間にどれ程沢山なものが眼に見えて来るかに驚くでしょう。そしてライターの形だけを黙って眺める一分間がどれ程長いものかに驚くでしょう。見ることは喋ることではない。言葉は眼の邪魔になるものです。
例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の色も形も見るのを止めるでしょう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。菫の花という言葉が、諸君の心のうちに這入って来れば、諸君は、もう眼を閉じるのです。
それほど、黙って物を見るということは難しいことです。菫の花だと解るという事は、花の姿や色の美しい感じを言葉で置き換えて了うことです。言葉の邪魔の這入らぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、嘗て見た事もなかった様な美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう。
画家は、皆そういう風に花を見ているのです。何年も何年も同じ花を見て描いているのです。そうして出来上がった花の絵は、やはり画家が花を見たような見方で見なければ何にもならない。絵は画家が、黙ってみた美しい花の感じを現しているのです。花の名前なぞを現しているのではありません。
どうだろう、だいぶ論旨が明解となり文脈の展開が明瞭になってきたのではないか。構造が見えてきたのではないか。もちろん、文章を書き変えたのではない。書き表し方を変えただけだ。文脈が展開するところで行を変えたのである。そして、行を変えた次の冒頭のことばに、アンダーラインをつけて、そのことを意識してもらった。
この段落は、このように書き表せる理解があれば、文脈の展開を追って行くことができるのである。その理解力が必要なのだ。そう出来るのと出来ないのでは、この段落を音声にした場合、どれほど違うものかと言いたい。
だが日本語の読解力などと一般化した言い方を持出しては、せっかくここまで展開して来た文脈に申し訳ない。その理解力を得るには・・・。そう展開しなければならない。
この段落の文脈を追うことにしよう。
前半は〈ライターをめぐる体験〉で〈話は私事になるが〉〈美しいと言った人がいない〉ー〈成る程〉〈直ぐ口をきく〉ー〈詰まらぬ話をするなどと言わないで下さい〉〈言葉は眼の邪魔になるもの〉と展開して行く。
次ぎには〈菫の花を見る・見ることは難しい〉ことをいって〈例えば〉〈菫の花という言葉が心のうちに這入って来れば、もう眼を閉じる〉ー〈それほど〉〈黙って物を見るということは難しい〉と展開する。
そして、終わりに〈画家は、皆そういう風に花を見ている〉〈花の絵は、画家が花を見たような見方で見なければ何にもならない〉とのべるのだ。
ここで大事なのは
〈話は私事になるが〉
〈詰まらぬ話をするなどと言わないで下さい〉
〈画家は、皆そういう風に花を見ているのです〉
これらの冒頭の一句あるいは一文も、接続詞と同じように「後続文脈の展開の方向性」を示しているということだ。
それぞれ、体験談、「言葉は眼の邪魔になるもの」という本質的議論、「画家の見ること、その絵をみること」という主題に近い議論という、後続文脈の内容を予測し、読者の理解を助けているのである。
どうだろう。「後続文脈の展開の方向性」ということが、文章を音声にする、朗読のひとつの重要なポイントであると納得できただろうか。この講座でのべていることは実際に声に出して読んでみて納得することが大切。自分の朗読に実地に役立てようと思うなら、黙読だけでは、けっして目的は達せられないだろう。