2008年 08月 02日
朗読講座 2 高樹のぶ子『鰻』を読んで ( 2 ) |
勉強したもうひとつはこういうことである。
具体的に説明していこう。
「佐藤松吉が草の茂った坂を上って、元鉄道が走っていた小高い道路に立ち周囲を見回してみると、弓なりにのびた道路もその左右に広がる田畑も、昨夜の豪雨ですっかり灰色がかっていた」
作品冒頭の文章である。前回の分類でいえば場面の描写、実況だ。「××がみると××だった」という文で実況の感じを出すのは文末の「灰色がかっていた」の言い方のみが手がかりのような気がする。何とかならないだろうか。ここから考えてみたことが私の勉強だ。
佐藤松吉はこの作品の主人公、それが大袈裟と言うなら視点人物といってよさそうだ。当然この人物は場面の中にいる。朗読は冒頭に彼の名前をいうのだが、朗読はそのときそのことを表現していなければならない。場面の中にいるとはどういう意味をもつのか。たとえば、彼は何のために草の茂った坂を上っていったか、何のために周囲を見回してみたのか。彼には意図がある、目的がある。それは作品の読者はもうすこし読み進まないとわからない。しばらく彼の見る情景が描写されるからだが、じつは彼には池(ダブ)の大鰻が気にかかっている。
「佐藤松吉」と朗読で冒頭を声に出すとき、昨夜の豪雨ですっかりいつもの光景とは変わった様子を見ている佐藤松吉、そして池(ダブ)の大鰻が気にかかっている佐藤松吉を含んだ(含意した)声の出しようが求められるのだ。いや、わたしはそれにとどまらず、この日その人生の最後の日を迎えるということも含意した佐藤松吉という冒頭の声が必要なのだといいたい。いわば尋常ではないのだから。状況の中にいるのだ。場面の中の彼を表現するというのはそういうことではないのか。そしてさらにいうならば、作品の冒頭にいきなり、読者がそのイメージを持ちようもなく登場人物の名前が出てくるケースがあるけれども、朗読者はそのように声にすべきなのである。
次の部分の松吉はどうだろう。
松吉ははっとなって目を凝らす
イチジクの幹は水から突き出しているが・・・(省略)
彼は手に持った皮を、遠くに放ってみた。
・・・(省略)
『おまえに会うのも、そろそろ最後かもしれない。おまえはもうちょっと長生きするんだろうなあ』
松吉とこのダブの鰻とのつきあいは長い 。
子どものころからだから、七十年以上になった。・・・(省略』
前段と後段、ともに松吉という名前ではじまるのだが、音声にする者の「こころの構え」といったものが違う。前段の「松吉は ・・・」では実況の部分であるから、場面の緊張の中にいる、臨場している者として発声するのだ。そうした構えで声にする。後段ではどうか。後段は説明、過去の話を振り返る。そのときの「松吉」という声にどのような「こころの構え」があるだろうか。これまで松吉の行動を語ってきた語り手には松吉に親しみ、親近感を持っているに違いない。そうした構えで「松吉とこのダブの鰻とのつきあいは長い」と発声していきたいものである。
松吉と鰻との長いつきあいを説明する部分の終わりはこうだ。
「大鰻が自分の背中を持ち上げて助けてくれたのだ、と彼は信じた」
この大鰻を声にするときどんな「こころの構え」があるだろう。感謝の気持ちとともに、親愛感とでもいうべき感情が込められるのではないか。
ことばが声になるとき、そのことばの意味が伝えられるのだが、それにとどまらずに、じつは話し手speakerの、そのことばが指示する対象に抱く態度、姿勢が表現され、伝えられるのである。対人関係の中で使われることの多い日常語でこのことは知っている。「あなた」ということばひとつを考えてもわかる。「彼」「彼女」だって同じだ。大鰻も同じことなのである。大きな鰻をイメージすること、ぬるぬるした鰻の食感を想起することではなく、大鰻をどう思っているかなのだ。
このことを自覚的に認識したのは初めてなのかもしれない。
「松吉は、奈良東大寺のお水取りの水は、北陸の古寺で大地に注ぎ込まれたものを百キロ以上も離れたところで汲み上げるという話を、どこかで聞いたのを思い出し、そうか自分だけのイチジクダブ、じぶんだけの鰻が、世界中と繋がっていたのかと、嬉しくなった。・・・一瞬、目の前の池が大海原に見えた」
この段落は実況の部分だが、「奈良東大寺のお水取りの水」と発音するとき、殆どの人は、この部分が説明の音声になってしまう。はじめて聞く話で説明したくなるのは無理もないのだが、ここは「○○という話」というようにコンパクトにいえるようにしなくてはいけない。
「世界中と繋がっていたのかと、嬉しくなった」が場面の主題で、「目の前の池が大海原に見えた」もそうだが、これは過去形ではない。現在進行形の実況として音声にすべきなのだ。ラストのコメント「水面の奥に向かって、松吉は微笑した」も過去形ではない。
音声にしたとき説明と実況では違う、と朗読者はよくよく認識することが必要だ。
長谷川勝彦
具体的に説明していこう。
「佐藤松吉が草の茂った坂を上って、元鉄道が走っていた小高い道路に立ち周囲を見回してみると、弓なりにのびた道路もその左右に広がる田畑も、昨夜の豪雨ですっかり灰色がかっていた」
作品冒頭の文章である。前回の分類でいえば場面の描写、実況だ。「××がみると××だった」という文で実況の感じを出すのは文末の「灰色がかっていた」の言い方のみが手がかりのような気がする。何とかならないだろうか。ここから考えてみたことが私の勉強だ。
佐藤松吉はこの作品の主人公、それが大袈裟と言うなら視点人物といってよさそうだ。当然この人物は場面の中にいる。朗読は冒頭に彼の名前をいうのだが、朗読はそのときそのことを表現していなければならない。場面の中にいるとはどういう意味をもつのか。たとえば、彼は何のために草の茂った坂を上っていったか、何のために周囲を見回してみたのか。彼には意図がある、目的がある。それは作品の読者はもうすこし読み進まないとわからない。しばらく彼の見る情景が描写されるからだが、じつは彼には池(ダブ)の大鰻が気にかかっている。
「佐藤松吉」と朗読で冒頭を声に出すとき、昨夜の豪雨ですっかりいつもの光景とは変わった様子を見ている佐藤松吉、そして池(ダブ)の大鰻が気にかかっている佐藤松吉を含んだ(含意した)声の出しようが求められるのだ。いや、わたしはそれにとどまらず、この日その人生の最後の日を迎えるということも含意した佐藤松吉という冒頭の声が必要なのだといいたい。いわば尋常ではないのだから。状況の中にいるのだ。場面の中の彼を表現するというのはそういうことではないのか。そしてさらにいうならば、作品の冒頭にいきなり、読者がそのイメージを持ちようもなく登場人物の名前が出てくるケースがあるけれども、朗読者はそのように声にすべきなのである。
次の部分の松吉はどうだろう。
松吉ははっとなって目を凝らす
イチジクの幹は水から突き出しているが・・・(省略)
彼は手に持った皮を、遠くに放ってみた。
・・・(省略)
『おまえに会うのも、そろそろ最後かもしれない。おまえはもうちょっと長生きするんだろうなあ』
松吉とこのダブの鰻とのつきあいは長い 。
子どものころからだから、七十年以上になった。・・・(省略』
前段と後段、ともに松吉という名前ではじまるのだが、音声にする者の「こころの構え」といったものが違う。前段の「松吉は ・・・」では実況の部分であるから、場面の緊張の中にいる、臨場している者として発声するのだ。そうした構えで声にする。後段ではどうか。後段は説明、過去の話を振り返る。そのときの「松吉」という声にどのような「こころの構え」があるだろうか。これまで松吉の行動を語ってきた語り手には松吉に親しみ、親近感を持っているに違いない。そうした構えで「松吉とこのダブの鰻とのつきあいは長い」と発声していきたいものである。
松吉と鰻との長いつきあいを説明する部分の終わりはこうだ。
「大鰻が自分の背中を持ち上げて助けてくれたのだ、と彼は信じた」
この大鰻を声にするときどんな「こころの構え」があるだろう。感謝の気持ちとともに、親愛感とでもいうべき感情が込められるのではないか。
ことばが声になるとき、そのことばの意味が伝えられるのだが、それにとどまらずに、じつは話し手speakerの、そのことばが指示する対象に抱く態度、姿勢が表現され、伝えられるのである。対人関係の中で使われることの多い日常語でこのことは知っている。「あなた」ということばひとつを考えてもわかる。「彼」「彼女」だって同じだ。大鰻も同じことなのである。大きな鰻をイメージすること、ぬるぬるした鰻の食感を想起することではなく、大鰻をどう思っているかなのだ。
このことを自覚的に認識したのは初めてなのかもしれない。
「松吉は、奈良東大寺のお水取りの水は、北陸の古寺で大地に注ぎ込まれたものを百キロ以上も離れたところで汲み上げるという話を、どこかで聞いたのを思い出し、そうか自分だけのイチジクダブ、じぶんだけの鰻が、世界中と繋がっていたのかと、嬉しくなった。・・・一瞬、目の前の池が大海原に見えた」
この段落は実況の部分だが、「奈良東大寺のお水取りの水」と発音するとき、殆どの人は、この部分が説明の音声になってしまう。はじめて聞く話で説明したくなるのは無理もないのだが、ここは「○○という話」というようにコンパクトにいえるようにしなくてはいけない。
「世界中と繋がっていたのかと、嬉しくなった」が場面の主題で、「目の前の池が大海原に見えた」もそうだが、これは過去形ではない。現在進行形の実況として音声にすべきなのだ。ラストのコメント「水面の奥に向かって、松吉は微笑した」も過去形ではない。
音声にしたとき説明と実況では違う、と朗読者はよくよく認識することが必要だ。
長谷川勝彦
by tarita93
| 2008-08-02 18:01
| 朗読講座