2009年 01月 21日
句読点を巡って(1)~読点の働きが長い休止、短い休止を生む |
いったい世の中がどうなっていくのか、そんな不安のなかで明けた2009年。朗読講座の文章を書く。昨年の暮れごろに文化センターの教室で扱っていた二つの作品を素材に、朗読で句読点とりわけ読点「、」をどう取り扱ったらよいか考えていこうと思う。言うまでもなく句読点「。」と「、」は文章の切れ目である。とはいえ、それだけの理解で安心していると、どうにもならないということが、いざ文章を声に出して読んでみるとわかる。
朗読の立場に立てば、句読点とは楽譜における休止符のようなもの、場合によっては息継ぎのポイントになる。そして休止の時間的長短にかかわる。ということは「間(ま)」に直結しているのである。朗読者は句読点の働きにもっともっと注目すべきだ。具体的にテキストにあたって、文例をあげて点検していくことにしよう。
戦後文学の代表的作家のひとり、中村真一郎の美の体験をめぐるエッセー『眼の沈黙』の文章である。
ー現実には起こりえないことを、空想の世界で思い描いて愉しむのは、特に子供の好んで行う遊びである。
1)ふたつの「、」が使われているが、どちらの「、」の間が長いでしょう。
2)途中で息継ぎをするとしたら、どちらの「、」のところでしょう。
質問がふたつになっているが、これは実はひとつの問いといっていい。間の長い方の「、」のところで息継ぎをするのだ。実地に考えて欲しいので問いを出したが、おわかりでしょう。後の「、」で息継ぎをする。そこの間も長い。
このようにふたつ以上の「、」が使われている場合、それぞれの間の長さはいつも変わらずに一定ということはなく、長短の区別があることが多いということを忘れないようにしよう。どの「、」でも一定の間で読むのは、朗読の初心の人に少なくないようだ。それではこの例文が「ーーー、ーーー、ーーー」という具合に三等分されてしまう。このようにならないようにしなくてはいけない。
ー思春期のはじめに、シャガールが私に与えてくれた胸を揺すられるような喜びは、それであった。
先の引用文とほぼ同じスタイルの文で、後の「、」のところが長い間で、そこで息継ぎができる。無意識なのだろうが「胸を」の前で間をとって息継ぎをする人が多い。どういうわけか「ーーーー、ーーーー」という風に、全体のセンテンスを二等分して読むのだ。しかしそれでは筆者にことわりなしにかってに「、」をそこに打ったようなもので、原文を変えたことになり、よくない。もちろん「ー、ーーー、ー」と三分割した読み方もよくないのだが。
それではと、「シャガールが」の後に「、」を打って、前の「、」がないかのように、そこでまったく間をとらずに読むのもよくない。「思春期のはじめにシャガールが、」というように読んではいけない。間の長さが比較的に短いのであって、間がないのではないのだ。それでは実際にそう読んでみれば分かるが、実に読みにくい。「与えてくれた」の後のところで休止を入れたくなってしまう。声を出して実地に体験すればわかる。
このように二つの例文とも、ひとつのセンテンスとして、リズムと流れがあるのであって、ほぼ等分に二分割あるいは三分割したのでは、まったく別のリズムであり、流れになってしまうのである。
朗読というのは文章の息づかいに読み手の息づかいを会わせていくのである。読み手の息に文章の息を強引に会わせてはいけない。等分に二分割あるいは三分割すると読み手の息づかいにしやすいのだと思うけれど、朗読者は肝に銘じるべきだ。このことは朗読の基本中の基本。まずこのことを確認して先に進むことにしよう。
ー私にとっては、美は人生を支える重要なものであり、子供のときに、父からかつて地上に生まれた民族のなかで、文化的に最も実りの多かったギリシャ人は、生の理想を真善美の統一に求めたと教えられた時、私はその理念を実に美しいと感じて、感動したものだった。
中村真一郎らしい複雑な文で「、」が7個も使われている。それぞれの休止、間の長さを考えよう。その考えなしに、どこも同じような間で読んでいると、聞いていて内容を理解するのが困難な読みになる。単調な読みにもなる。読みの巧拙はそこにかかるといってよい。音声による情報の伝達に、いかに「、」の取り扱い、表現が大事かがわかる。
ではどう扱えばよいのか。そのとき必要なのが文の骨格、樹木に例えれば幹と枝という考え方である。この文の骨格、幹はどうなっているか。主語と述語の関係に注目すると、次のようになる。
〈私にとって美は重要、子供のときに、父から:::と教えられた時、私は感動した〉さらに〈私にとって美は重要、子供のときに、私は感動した〉と幹を捉えることができる。
このように文という樹木を幹に枝葉がついて形をなしていると考えるのだ。文をこのように捉えるなら、〈重要なものであり〉の後の「、」で長い間が必要とわかる。さらに〈教えられた時〉の後の「、」でも長い間が要る。
したがって、〈子供のときに、父からかつて地上に生まれた民族のなかで、文化的に最も実りの多かったギリシャ人は、生の理想を真善美の統一に求めたと教えられた時〉の部分で使われている三つの「、」は長い間ではないと考える。間が要らないと言っているのではない。短い間は必要なのだ。ここを間違えてはいけない。
さらに言うならば〈ギリシャ人は〉の後の「、」では息継ぎをする。短い間でそれをする。この呼吸がむずかしい、と思う人がいるかもしれない。〈私はその理念を実に美しいと感じて、感動したものだった〉の「、」は短い間、〈私は感動したものだった〉が幹だからである。これは容易に理解できよう。
さてこんどは9つもの「、」が使われている複雑な文で考えよう。
ー私は二十歳の頃、フランスの詩人ヴァレリーが、『パンセ』のなかでパスカルが、足もとに開く深淵が自分を恐れさせる、と書いているのを非難して、西欧人は深淵があれば、そこに先ず橋を架けることを考えるのであって、それこそ死の恐怖に挑戦する人間の文明というものなのだ、と昂然と述べているのを読んで、感動したものである。
ワンセンテンスである。多少の予備知識がいるだろうが、分かりにくい文だとはいえまい。ただ、複雑な文であることは間違いない。声に出して読むとき、むずかしさを感じるかもしれない。それぞれの「、」の間を考えよう。9つある「、」の全部を同じ長さの間で読んではいけないとはすでに学んだはずだ。ためしにそのように読んで、とてもそれでは書いてあることを表現できないことを確認するのもよいかもしれない。
この文は内容もさることながら文の構造が複雑なのだ。こんなときは文の骨格、幹を考えるのがよい。
〈私は‥‥感動したものである〉
〈私は二十歳の頃‥‥ヴァレリーが‥‥述べているのを読んで、感動したものである〉
このように幹を捉えることができたら、解決に近づいている。ヴァレリーは何と言ったか。
〈私は二十歳の頃‥‥ヴァレリーが、パスカルが‥‥と書いているのを非難して‥‥と述べているのを読んで、感動したものである〉
これでこの文をつかむことができた。
〈私は二十歳の頃〉のつぎの「、」は文末の「感動したものである」につながる主語、述語関係で、間にいろいろ挟まっている。主語と述語が遠く離れている。こうした場合、長い間が要る。〈『パンセ』のなかでパスカルが、足もとに開く深淵が自分を恐れさせる、と書いているのを非難して〉の部分では、このふたつの「、」の間は短い間。〈非難して〉の後の間は長い間である。
つぎに〈西欧人は深淵があれば、そこに先ず橋を架けることを考えるのであって、それこそ死の恐怖に挑戦する人間の文明というものなのだ、と昂然と述べているのを読んで〉の部分では、この3つの「、」の間は短い間だ。間がないのではないことに注意。そして〈読んで〉の後の「、」は長い間になる。そこでようやく息がつける。
どうだろう、実地に声に出してこの休止(間)の設計通りに読んでみて欲しい。それでこそ、書かれていることが表現される、ということが理解できるだろう。これも朗読の技術のひとつなのである。
もうひとつの例文で、句読点の働きについて理解をさらに固めることにしよう。
ー特に今日の野球場を豪華にしたような円形劇場は、現在でも闘牛や野外劇の催しに利用されて生きていて、そのぐるりと巡らした石のベンチのうえに立って、円形の砂の空地を見下ろしていると、悠々たる歴史の流れが、耳もとに音を立てて聞えてくるような気がして、思わず体に翼が生えて、時の彼方へ自分が飛んで行ってしまいはしないか、という錯覚に襲われて来るほどである。
長いひとつのセンテンスで8つの「、」が使われているけれど、先ほどのふたつの文と比べ、内容的にもやさしく複雑な文という気はしない。とはいえ、どの「、」も同じ間でいいというわけではけっしてない。ここでは先の例文とは違って、骨格、幹の手法があまり役に立たない。短い間のところを先に見つけていくことにする。
〈特に今日の野球場を豪華にしたような円形劇場は、現在でも闘牛や野外劇の催しに利用されて生きていて〉の「、」そして〈そのぐるりと巡らした石のベンチのうえに立って、円形の砂の空地を見下ろしていると〉の「、」は短い間でよいことがすぐわかるだろう。
同じように〈悠々たる歴史の流れが、耳もとに音を立てて聞えてくるような気がして〉の「、」も短い間。また〈思わず体に翼が生えて、時の彼方へ自分が飛んで行ってしまいはしないか〉の「、」も短い間である。〈流れがー聞えてくる〉〈翼が生えてー飛んで行って〉というつながりがあるからだ。
そしてそれ以外の〈生きていて〉〈見下ろしていると〉〈気がして〉の後の「、」は長い間がよい。だがおしまいの〈という錯覚〉の前の「、」は短い間がよさそうだ。これも声に出して確認をしてもらいたい。
短い間を/、長い間を//で表して、この文を書くとこのようになる。声に出して読んでみよう。
ー特に今日の野球場を豪華にしたような円形劇場は/現在でも闘牛や野外劇の催しに利用されて生きていて//そのぐるりと巡らした石のベンチのうえに立って/円形の砂の空地を見下ろしていると//悠々たる歴史の流れが/耳もとに音を立てて聞えてくるような気がして//思わず体に翼が生えて/時の彼方へ自分が飛んで行ってしまいはしないか/という錯覚に襲われて来るほどである。
このように読めば、筆者の息づかいを表現している読み方だといえそうだ。さらに、文の内容を正確に表現した読み方だともいえるのである。
こう検討してくると「、」の間の長短は、ほぼ理屈でもって説明されるといえそうだが、読み手が完璧に根拠を説明できるとは限らない。では何が間の長短を決めるのか。文章に対する感覚、センスがそれを決める、といってもよさそうだ。多くの文章を読んでそのセンスを磨いていくしかないのだろうと思う。ここに朗読の魅力があり、功徳があるともいえよう。
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by tarita93
| 2009-01-21 13:55
| 朗読講座