2009年 11月 17日
ネットの森から~2009.11.22 |
ここに紹介するのはわが先輩にして友人であり、アナウンス室長という上司でもあった中田薫さんの文章です。もとは彼の所属するグループの同人誌「いちもん」に掲載されたものですが、ネット上でも読むことのできる文章です。アナウンス室長という立場で、また自分もひとりの表現者という立場で、中田さんは、仲間のアナウンサーたちの仕事について、専門家としての仕事の内奥を顕らかにすべく「アナウンサー列伝」と題した文章を綴ってきました。その一端にわたしの仕事に論及した部分があります。1997年6月放送のドキュメントにっぽん「心で闘う120秒~剣道・日本最難関試験に挑む」に触れたものです。ここで彼が論じている「文頭の音を発した時、既に最後のことばに連動する」とはわたしの言う「後続文脈の展開の方向性」と重なります。文章を音声にして読むとき、そのことがきわめて重要であることを、わたしの講座と合わせて読み、理解を深めていただきたいと思います。
ナレーションの世界で構成を追求するのは、名手長谷川勝彦である。
八段昇進試験を描いたドキュメントは火花の散るような番組だった。ことし京都市武道センターに集まった受験者は七百二十一人。いずれも「四十六歳以上、在七段位八年以上」という資格を満たす剣士たちである。
わずか二分の立ち会いの中に、剣の心を具体化する。それが審査員に対するただ一つのアピールだ。
竹刀を交えるその瞬間、剣士は二つのことに集中する。一つは間合い。もう一つが中心線である。自分の喉元に向けられた 相手の竹刀をどう逸らすか。中心線を取るということは技の生死に関わる基本中の基本なのである。
相手の中心線を外し裂帛の気合いで撃ち込む。それは無意識の一撃でなければならない。心を動かさず、ひたすら無心に間合いをはかる。稽古の成果を謙虚に信じる境地こそが八段の資格だ。ことしその関門を抜けて八段に昇進したのはわずかに六人。
番組は、礼と心の闘いの構成美を、澄み切った空気の中に描く。ナレーションもまた爽やかな緊張感の中にあった。長谷川は声の世界で中心線を取りながら番組に対峙した。
アナウンサーの大切な要素として、われわれは「ライブを仕切る」という能力をあげる。
放送の世界で「仕切る」というのは、情報の海の中で的確にそれを処理しながら提示していく、というほどの意味である。それに「ライブ」という要素が加わるとなれば、誰もが思い起こすのは、ニュースなどのナマ番組、討論やシンポジウムなどのコーディネート、ステージの司会などであろう。そのどれもが優れた構成力を要求する。緻密な台本が用意されているにせよ、アドリブの連続であるにせよ、一定の時間の中で声の構成をまとめあげて行くことは、アナウンサーの専門能力そのものであると言える。
ナマでない場合はどうか。
朗読をテープに吹き込む。入念な準備作業がある。固有名詞の読み方、作品の理解、時代背景、作者独特の筆運び、全体のトーン・・・。それらのすべてをたなごころに入れて、われわれはマイクに向かう。しかし、いったんテープが回り始めれば、瞬間の判断とコントロールの連続である。何回録り直しをしようと、一定の時間の中で作品を声によって再構成していくということに変わりはない。その時々の息づかいは二度と再現されるものではない。声による表現は基本的にナマなのである。
声による構成は、それが空気中に放たれるやいなや消え去ってしまう。だからこそ発する瞬間が勝負である。「ライブを仕切る」とは、中心線を取ることに他ならない。
ある音は文頭を発したとき既に最後のことばに連動する。
一本のニュースを例に取る。
「検査のため、今月十三日から、東京都内の病院に入院していた共産党の宮本顕治議長が・・・」
ここまで聞くと、ほとんどの人が宮本議長が亡くなったのかと思ってしまうのではないか。実はそうではない。文章は、
「・・・きょう午前、退院しました」
と続く。これは、日本語の構文上のやむを得ない問題である。ならば最初から、
「きょう、共産党の宮本顕治議長が退院しました」
と始めればいいというかもしれない。しかし、それにも問題がないわけではない。入院していたのかどうか、その経過が分からないままに、話が退院から始まってしまう。
問題はそんなことではない。最初から死なせずに読む技術があるのである。
「検査のため、今月十三日から、東京都内の病院に入院していた共産党の宮本顕治議長が・・・」
何の準備もなくここまで読んでしまっては、伝え手にもはや「生殺与奪の」力はない。いくらなんでも、それは無理である。
死なせずに読むためには大前提がある。伝え手が「声を発する前に」退院したことを知っているということだ。知っているからこそ読み始めから宮本議長を死なせずにすむことができる。逆の言い方をすれば、事前に知っているのに、あたかも亡くなったかのように読んでしまうのはイケナイことだ。
「退院しました」と「亡くなりました」とでは、冒頭の「検査のため」の声がすでに違わなければならない。
これこそ「声の中心線」である。
そこで次のニュースである。
「今から六十年前世界一周飛行に挑戦し行方不明になった女性飛行家アメリア・イヤハートさんと同じ型のプロペラ機で世界一周を目指していた女性実業家のリンダ・フィンチさんが・・・」
無事出発地に戻るのか、それともイヤハートさんと同じ運命を辿るのか。
さて、中心線をどう取ろう。
以上が中田さんの文章です。ここで言われていることは、文章を音声にする上で極めて、初歩的にして重要なことなのですが、あまり指摘されてこなかったことです。「知っている」のにあたかも「亡くなったかのように」聞える読みをしてしまうことが現実によくあるのです。中田さんもわたしも、得てしてそう読んでしまうものと知っているからこそ「おろそかにできませんよ」と強調するのです。文章というのは、内容の理解が難しいとかにかかわらず、一音たりとも油断したままで音声にする、音の言葉にすることはできません。ここで述べられていることを朗読者は肝に銘じて欲しいのです。
by tarita93
| 2009-11-17 22:32
| 随想