2009年 07月 26日
休止と切れ目〜副詞の働きを巡って |
前回の文章では有島武郎の『一房の葡萄』の文章を素材にして句読点の働きについて朗読者の立場で考えた。休むべきところ、つづけるべきところ、そして、どこで息をするかという問題。ところが、説明しきれていないことがあるのがみえてきたように思う。それはどうやら、文法的にいって副詞の働きの問題らしい。とはいえ前回の文章でのべたことをまた言わなくてはならない。
副詞をその働きについてあらゆる角度から考え、そのうえで説明をしようというような書き方はできない。日本語文法の専門家ではないので、そんなことはできない相談。ここでは文例に即して、その場その場に応じて朗読者として判断していくという方針で、具体例をいくつか積み上げていくことにしよう。
ーそしてその学校の行きかえりには、いつでもホテルや西洋人の会社などが、ならんでいる海岸の通りを通るのでした。
この後ろの「、」はおかしいよ、そう作家に不平をいってもよさそうな文だ。とはいえ朗読者は不平を言っても始らないというのが原則だ。ここでは〈いつでも〉という副詞の働きを見なければならない。〈いつでもーを通るのでした〉という風に〈いつでも〉が作用している。〈ー〉の部分は通るのはどこという部分で〈ホテルや西洋人の会社などが、ならんでいる海岸の通り〉という名詞句。
名詞句などと文法の用語を持ちだして申し訳ないが、〈いつでも海岸の通りを通るのでした〉の〈海岸の通り〉に〈ホテルや西洋人の会社などが、ならんでいる〉という形容する語句がついたものと考えればよい。それなら〈ホテルや西洋人の会社などがならんでいる〉と「、」がない方がよいのではというのがわれわれの不平だったのだ。それはともかく、ここで言いたいのは、この文を声に出すとき、こうとらえて読むのがよいということだ。
ーそしてその学校の行きかえりには//〈いつでも〉ホテルや西洋人の会社などが/ならんでいる海岸の通りを通るのでした。
〈いつでもホテルや西洋人の会社〉のようには決して誰も読まない。「/」の間があるのではないが、〈いつでも〉という副詞はあとにつづくホテルということばに係らない、切断されているというのか、決してくっつかないのだ。どうやら副詞というのは〈いつでも〉のように印をつけて読んだ方が間違いがないようだ。〈いつでもー通る〉というように離れて係るのだから。
こう考えてみよう。よりはっきりと見えてくるのではないか。〈いつでも〉の置かれるべき場所は、いろいろなケースが考えられる。
ー学校の行きかえりには、〈いつでも〉ホテルや西洋人の会社などが、ならんでいる海岸の通りを通るのでした。
ー〈いつでも〉学校の行きかえりには、ホテルや西洋人の会社などが、ならんでいる海岸の通りを通るのでした。
ー学校の行きかえりには、ホテルや西洋人の会社などが、ならんでいる海岸の通りを〈いつでも〉通るのでした。
見た通りこの3つの場合とも、日本語としておかしいということはない。〈いつでもー通る〉というように、〈いつでも〉が〈通る〉の前という語順は変わらないのだけれども。そう、副詞というのは、センテンスの中で、この場所でなければ有効に機能しないということはないのだ。だから、文中のどこに置かれても、前後のことばとくっつかない。たとえば〈学校の行きかえり〉という語句(これも名詞句)が〈学校〉〈の〉〈行き〉〈かえり〉という4つの単語がこの語順に限って、くっついて出来ているのとは、まったく違うのである。
さらに4つ目の場合として〈いつでも〉という副詞をのぞいた文を考えてみよう。
ー学校の行きかえりには、ホテルや西洋人の会社などが、ならんでいる海岸の通りを通るのでした。
これでセンテンスは立派に成立している。〈いつでも〉という意味(通る頻度を表す。しばしば、たまに、しょっちゅうなどと同じように)は消えているけれども。してみれば幹と枝葉という点からみると、副詞は幹ではなく、枝葉の部分で働くのだと理解される。「副」とは辞書で見ると「主となるものにつきそって、その助けとなるもの」とあるが、まさに副詞の働きにあてはまるのである。
そして、副詞というのは「用言を修飾する」とある。どうゆうことか具体的に例文をみることにしよう。こんな具合だ。
ージムは僕より身長(せい)が高いくせに、絵は〈ずっと〉下手でした。それでもその絵具をぬると、下手な絵さえ〈なんだか〉見ちがえるように美しくなるのです。僕は〈いつでも〉それを羨ましいと思っていました。
〈ずっと〉〈なんだか〉〈いつでも〉が副詞だが、たとえ省略しても通じることがわかる。しかし「主となるものを助け」ている。それはともかくとして、用言というのは「動詞、形容詞、形容動詞の総称」でここでは下線で示した。その用言を修飾している。助けているのだ。
この例文の場合、副詞と修飾される語(用言)が離れていないので問題ないのだが、次の例はどうだろう。
ー〈その日から〉ジムの絵具がほしくってほしくってたまらなくなりましたけれども僕は〈なんだか〉臆病になって、パパにもママにも買って下さいと願う気になれないので、〈毎日々々〉その絵具のことを心の中で思いつづけるばかりで幾日か日がたちました。
〈なんだか〉臆病になって、の部分は離れていないからよいが、〈その日から〉と〈毎日々々〉の場合に、副詞と修飾される語が離れているので声に出すとき問題が生ずる。こう読みたくなるだろうが、それではいけない。
〈その日から〉ジムの絵具が/ほしくってほしくってたまらなくなりましたけれども/僕は〈なんだか〉臆病になって、
〈毎日々々〉その絵具のことを/心の中で思いつづけるばかりで/幾日か日がたちました。
こうした読み方では、〈その日からーたまらくなりました〉〈毎日々々ー思いつづける〉という副詞の働きを表現していない読みになってしまう。
こう考えればよいのではないだろうか。副詞とすぐ後の語との間には切断、切れ目がある。だが休止があるのではない。切れ目であるが休止ではない。「/」で表す休止ではない。〈 〉で表されるような切れ目なのだ。
他の例文で見ていくが「。」以外では休止がないように読むと前回とりあげたもの。副詞は〈 〉で示してある。切れ目と休止の違いが納得できるだろうか。
ー僕はもう駄目だと思うと〈急に〉頭の中に血が流れこんできて顔が真赤になったようでした。すると誰だったかそこに立っていた一人が〈いきなり〉僕のポッケットに手をさし込もうとしました。
〈急にー顔が真赤になった〉と〈いきなりーさし込もうとしました〉という関係を読まねばならない。急に頭の中に、いきなり僕のポッケット、というふうにはなってはいけない。この例文では「。」のところは休止で息をする。そのほかに休止はない。〈急に〉と〈いきなり〉の前後は切れ目であって休止ではない。一拍の切れ目と言いたいのだが、切れ目の時間的長さを言うことはできない。
こう読むことがあるかもしれないが、それではいけない。
ー僕はもう駄目だと思うと急に頭の中に/血が流れこんできて顔が真赤になったようでした。すると誰だったかそこに立っていた一人が/いきなり僕のポッケットに手をさし込もうとしました。
これでは、長い文が真ん中で二分され、原文のリズムではなくなる。次の読み方もよくない。
ー僕はもう駄目だと思うと急に/頭の中に血が流れこんできて顔が真赤になったようでした。すると誰だったかそこに立っていた一人がいきなり/僕のポッケットに手をさし込もうとしました。
こんな風に読んだ人もあるかもしれないと思う。よいという例と僅かな違いしかないではないかという人がいるかもしれない。だが違うのだ。語感、感覚つまりセンスというのはそんなものだと思うべきかもしれない。もうひとつ例文を読むことにしよう。
ー僕のポッケットの中からは、〈見る見る〉マーブル球や鉛のメンコなどと一緒に、二つの絵具のかたまりが摑み出されてしまいました。
この文は〈見る見るー摑み出されて〉の関係を読むと同時に〈ポッケットの中からー摑み出されて〉の関係をも読まねばならない。そこでこんな読みになるだろう。
ー僕のポッケットの中からは/〈見る見る〉マーブル球や鉛のメンコなどと一緒に/二つの絵具のかたまりが摑み出されてしまいました。
「/」の部分は休止。同じ間でよさそうだ。「、」の休止では、安んじてというか、たっぷり、文字通り休める。そう考えるべきだ。
文を読む行為を歩くことに例えると、休止は立ち止まる感じになるだろう。ところが副詞の切れ目というのは、ここでは〈見る見る〉のあとの切れ目だが、そうではない。足は止まるけれど、一拍という感じ。あるいは重心が右足から左足にかわる瞬間のような。感覚的な説明で申し訳ないが。
ここまでで今回の講座で説明することはなくなったと思ったのだがそうではなかった。さらに別の例文で個別に検討していこう。ここに注目して欲しいというところは下線で示す。
ー「泣いておどかしたって駄目だよ」と(1)よく出来る大きな子が(2)馬鹿にするような、にくみきったような声で言って、動くまいとする僕をみんなで寄ってたかって二階に引張って行こうとしました。僕は出来るだけ行くまいとしたけれども、〈とうとう〉力まかせに引きずられて、::中略::。そこに僕の好きな受け持ちの先生の部屋があるのです。
下線で示したふたつの語句。
(1)は「よく出来る」が「大きな子」を修飾している語句(名詞句)で、「よく出来る大きな子」と間に休止はもちろん切れ目もない。言わば一語の名詞と同じように働く。(2)は「馬鹿にするような声」と「にくみきったような声」というふたつの語句がひとつに合わさった表現で、休止が入るとともに、それぞれの語句の語調がひとしいことを見て欲しい。「馬鹿に:::」と言い始める語調と「にくみきった:::」と言い始める語調はまったく同じだ。「、」の働きである。出だしの音の高さが同じになる。(1)と(2)の違いを納得して欲しい。
ー先生は〈少しの間〉なんとも言わずに、僕の方も向かずに、自分の手の爪を見つめていましたが、〈やがて〉静かに立って来て、僕の肩のところを抱きすくめるようにして「絵具は〈もう〉返しましたか」と小さな声で仰いました。
下線で示した三つの語句は先ほどの(2)例と同じ。それぞれが別個に先生の様子を形容している。ここでも、出だしの音の高さを同じにしたい。ここの「、」は打たざるを得ない。3つの表現がごっちゃにならないようにしているのだ。休止が入るので、より印象深くなるといえる。この例文では、多用されている休止を生かすように読むべきだろう。ここにもことばの働きを音に表現する朗読の技がある。
ー〈ふと〉僕は肩を軽くゆすぶられて眼をさましました。僕は先生の部屋でいつの間にか泣寝入りをしていたと見えます。〈少し〉痩せて身長の高い先生は、笑顔を見せて僕を見おろしていられました。僕は眠ったために気分がよくなって今まであったことは忘れてしまって、〈少し〉恥ずかしそうに笑いかえしながら、〈慌てて〉膝の上から辷り落ちそうになっていた葡萄の房をつまみ上げましたが、〈すぐ〉悲しいことを思い出して、笑いも何も引込んでしまいました。
この文章を練習文として声に出して読んでみよう。〈 〉で示した副詞はそうむずかしくない。休止ではないが切れ目であるということ。すると下線でしめした主格の助詞「は」と直後の語の間(あいだ)は、副詞と同じく切れ目であるということに気がつくのではないか。「先生は、笑顔を見せて」のところは「、」があるので休止が入るのだが、他のところは切れ目である。
この文章は切れ目と休止の違いを読みにどう表現したらよいか、練習するのにもってこいだ。そして休止をどう(長いのか短いのか)とったらよいのか、その練習にもなる。つまりこの文章の息に読み手の息をどう合わせていくのか。ヒントをひとつ。「。」の休止をたっぷりと。「、」の休止もそれに劣らずたっぷりのところと短い間のところがあるだろう。
それにしても休止をきちんととった読みができさえすれば、切れ目は自ずと表現できるし、息を合わせることができる。そのことをここで体得して欲しいものだ。
by tarita93
| 2009-07-26 01:01
| 朗読講座